Forced Labor in Osaka
http://www.eonet.ne.jp/~tuitou-osakaroko/syuyoti/syuyoti.html
事 業 場 | 中国出港日 | 乗船港 | 被連行数 | 日本上陸日 | 在日死亡数 | 帰国出港日 |
大阪船舶荷役 | 43.08.29 | 大連港 | 210人 | 43.09.03 | 不明 | 不明 |
藤永田造船所 | 44.08.05 | 塘沽港 | 161人 | 44.08.14 | 6人 | 45.11.29 |
港運大阪安治川 | 44.10.10 | 青島港 | 200人 | 44.10.18 | 12人 | 45.11.07 |
港運大阪川口 | 44.10.10 | 青島港 | 200人 | 44.10.18 | 11人 | 45.11.07 |
港運大阪築港1次 | 44.04.15 | 大連港 | 191人 | 44.04.20 | 9人 | 45.04.24 |
港運大阪築港2次 | 44.10.16 | 塘沽港 | 270人 | 44.10.22 | 47人 | 45.11.07 |
事 業 場 | --- | --- | 転入数 | 大阪到着日 | 在阪死亡数 | 転出日 |
港運伏木から | --- | --- | 178人 | 44.08.08 | 1人 | 45.01.? |
いずれも当時の名称。港運とは、戦時下統制団体・日本港運業会(本社東京)の略。
大阪には大阪支部がありました。
出所=『大阪と中国人強制連行』(大阪・中国人強制連行をほりおこす会 99.11.07発行)
そこでは安治川・川口の乗船港について、「外務省報告書」記載通り「塘沽港」としています。
しかし、以降の幸存者からの聞き取りでいずれも「青島港」であること、
「安治川事業場報告書」で青島出港としていることにより、「青島港」と訂正しました。
収容地にはそれぞれ変遷があるため、以下ではまず最初の収容地を図示しています。
全く図示できない事業場は、収容地も判明しないためです。
藤永田造船所
●旧藤永田造船所の所在地 | 株式会社藤永田造船所 藤永田造船所は1689年大阪堂島に「兵庫屋」として創業し、何度か大阪湾沿いを移転の後、 1920年代住吉区柴谷町〔現住之江区〕に本社を構えるようになりました。 こうした中で、44年8月に連行された161人(華北労工協会介在)の中国人が強制労働させられました。 「ある青年は、(逃げるのを)監視兵に見つかって日本人に報告され、素っ裸のまま両手を縛られて 引っ張っていかれ、太陽が照りつける中を電信柱にくくりつけられました。 そして午後になって砂浜まで引きずっていかれ、銃殺されました。」 藤永田に到着しても宿舎は塘沽とよく似ていたようです。 「一つの大きい部屋に入れられました。部屋の形は塘沽と同じような形、真中が通路で両側がベッド。 ベッドは今度は2段になっている。部屋はアンペラではなくて、板張りの木の部屋でした。 2段ベッドの端に梯子がある。上の段は外側に行くと低くなる。真中の通路の近くに行くと天井が高くなる。 まっすぐ立てるぐらいの高さがある。」 「(宿舎の敷地の)周りは3,4mのコンクリートの壁で囲んであって、 上に鉄条網が張ってありました。 幅20m長さ40mぐらいの庭で、門を入って右側に2つの警察の部屋がありました。 常時2人の警察官がいました。」 同工場には、学徒動員、朝鮮人徴用工、連合軍捕虜も労働に就かされていましたが、 相互の交流は禁止されていましたし、宿舎は別でした。 藤永田に連行された中国の人々は、大阪の他のところに連行された人たちよりは遅く、 45年11月29日に九州南風崎からアメリカ軍の上陸用舟艇(l.s.t.)に乗船して故国に向かいます。 67年、三井造船に吸収合併され、藤永田造船所はその歴史に幕を閉じました。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
●収容地跡の現在(現三井造船マシナリー・サービス大阪工場) | |
●収容地の当時の住所 大阪市住吉区柴谷町44番地 ●収容地の現在の住所 大阪市住之江区柴谷1丁目2 |
港運大阪安治川
●港運大阪安治川の最初の収容地 | 日本港運業会大阪安治川華工管理事務所(44.11.25設立) 日本港運業会は43年2月10日設立されました。港湾荷役を全国1社で統括する戦時下統制団体です。 東京に本社がありました。 この大阪港石炭運送株式会社で強制労働させられたのが安治川収容所に連行された中国人です。 連行された人たちは、大きな船の粉塵舞い散る船倉の中でクレーンの先の“もっこ”に石炭を積み込む作業や、 艀に積み下ろす仕事、沿岸で天秤棒の両端に合計75kgの石炭を担ぎながら 渡し板から陸揚げする作業などをさせられました。 「船倉はものすごく石炭の粉が舞い上がっていて、顔が真っ黒けになったが風呂は入れなかった。 帰って顔を洗うぐらい。」 こうした作業により、帰国後肺を病んだ人たちもいました。 「仕事中に殴られたことはよくあった。ある時、范守仁(名簿で范併仁)と組んで働いていたとき、 范守仁の方がおなかをこわしていて2回も3回もトイレに行った。そうなるとつり下げて運ぶときの仕事だと、 2人いて仕事をするのでその間仕事が止まってしまう。監督がそれを見ていて、これはさぼっているということで、 監督が自分で殴らないで私に“范を殴れ”と言った。私は同じ班であるし同じ故郷の人をそんなに殴れない。 殴りたくないということで強く殴らなかったら、監督が怒って逆に范に“趙を殴れ”と言い、お互いに50回ずつ ビンタをしないと許さないということになって、2人とも腫れあがるぐらいになりました。」 強制連行された中国人を管理したのは大阪安治川華工管理事務所とされていますが、 その設立は44年11月25日で、連行後のことになります。 なお大阪港石炭運送株式会社は、「外務省報告書」で「大阪石炭荷役会社」と呼ばれ、 「事業場報告書」(安治川華工管理事務所が46年外務省に提出)では「大阪石炭運送株式会社」と 書かれていますが。同一の団体と思われます。 日本港運業会は、日本の敗戦の年45年12月25日から精算過程に入り、46年4月1日解散命令が出ています。 安治川に連行された人々の収容地は現在の弁天埠頭のそばの安治川の河底に位置します。 「陸揚げはあっちこっちで、宿舎の近くもあれば、遠いところあった。河の北側に工場が多く、 そこに降ろすことが多かった。」 停電がちと灯火管制下の中だからこそ一層大阪市民に求められた電気やガスにも、 見えないところで連行された中国人が関与していたのでないでしょうか。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
●最初の収容地跡の現在 | |
●最初の収容地の当時の住所 大阪市港区湊屋浜通2丁目11 ●最初の収容地の現在の住所 大阪市港区弁天6丁目 弁天埠頭 西北端西方 安治川の中 |
港運大阪川口
●港運大阪川口の最初の収容地 | 日本港運業会大阪川口華工管理事務所(44.11.25設立) 44年10月大阪川口に200人中国人が強制連行(華北労工協会介在)されてきます。上の安治川の人たちと同じ船です。 出身地は河南省が6割強、山東省が3割強です。 川口華工管理事務所は連行された中国人の管理者とされています。 大阪沿岸荷役業統制組合聯合会は、40年8月設立の大阪沿岸荷役業組合(艀から陸に荷揚げ)に加えて、 沿岸周辺での工場荷役、倉庫荷役も下部機構とする、43年4月3日設立の戦時下統制団体です。 収容された場所は確定できていませんが、住所は西区川口町36番地となっていることと証言を重ねると、 日本郵船ビル内部もしくはそばの木造2階建てだったようです。 2004年に亡くなった秦登嶺さんは当時の様子を次のように語っています。 「建物には入り口は1つしかない。3人の警察(銃剣を付けている)が順番に見張っている。 労働者が必要なときは、向こうから必要な数を警察に言って警察が門を空けて人を出す。 数を言いにきた人が先頭につき、現場監督が後に着く。 1年位たった後は、慣れてきたので後の監督はつかなくなる。」 「船の中で目が悪くなって、川口に着いて十日位で目が見えなくなってしまった人がいた。 みんな労働に出掛けた後、1人で家に置かれて、ご飯もうまく食えない。だんだん下痢になった。 腹も悪くなり、しまいに体にのみがいっぱいわいてきた。私たちは仕事から帰ってきて、お湯をわかしたり、 のみを摘ったりした。目が見えなくなってから10何日で死んでしまった。 病気になっても食料を減らすということはなかったが、みんな昼飯は現地で食べているから、 家にいると昼飯がなくなってしまう。病気になってから飯を持っていっても“食わない”と言う。 何も言い残さず、とうとう死んでしまった。」 運んだ品物は証言の中で各種あります。 「朝食はマントウ1個と、質の悪い小麦粉のスープが1杯でした。昼食は、仕事をしている場所でおにぎりが 1個出ました。夕食は、やはりマントウ1個とスープ1杯でした。だれもが腹をすかしていて、しかも体力を超える ほどの重労働をさせられましたから、病気で何人もの人が亡くなりました。」 沿岸での様々なものを運ばされたようですが、「事業場報告書」(川口華工管理事務所が46年外務省に提出)でも、中国人使用業者として、 沿岸荷役業者、倉庫業者の他に、鉄道運送業の中央卸売市場支店が記載されています。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
●最初の収容地跡の現在 | |
●最初の収容地の当時の住所 大阪市西区川口町36番地 (この地番は当時の郵船ビル所在地と同一) ●最初の収容地の現在の住所 大阪市西区川口1丁目(?) ●現在の中央卸売市場(収容所跡近くの安治川の対岸から) |
港運大阪築港2次
●港運大阪築港2次の最初の収容地 | 日本港運業会大阪築港華工管理事務所(44.11.25設立)の 第2次連行 築港2次は、戦後48年、アメリカ軍による横浜でのBC級戦争犯罪裁判で有罪となっています。 「45年2月頃、顔孔仁大尉がすべての中国人労働者のために、 労働時間の短縮と食料の増量を武内に嘆願しました。武内は、彼の要求を無視しただけではなく、激怒して、 彼が倒れるまで頭や身体を激しく殴打しました。それから武内は顔大尉の頭や身体を激しく蹴ったので、 大尉は重傷を負いました。その後、顔大尉は数日間泣き叫び続けました。というのも、彼は自分が 理にかなった要求をしたというだけで、日本の民間人に殴打されたことを非常に恥じていたからです。」 「彼は視力を失いました。彼はそれほどひどい状態でしたが、日本人からは何の治療も受けませんでした。 2人の中国人看護兵は彼のためにできるだけのことをしましたが、医療用具なしにできることはあまりにわずかでした。 武内は顔大尉の食事の量をカットしました。というのは彼には「働く基盤」がないというわけです。空腹と負傷の結果、 顔大尉は、武内に殴られて約十日後に亡くなりました。」 大阪築港2次270人が強制連行(華北労工協会介在)されてきのは44年10月です。8割以上が河北省出身です。 「事業場報告書」(築港華工管理事務所が46年外務省に提出)は、「主たる職場は、大阪船舶荷役株式会社に供給し、 余力を揚塔司令部の配置により沿岸荷役組合へ供給す」と記しています。 築港2次では、抵抗闘争があり、大阪府警察部により10人前後の逮捕者が出ています。 「もうこれ以上、牛馬のような扱いには耐えられないと、反抗することになりました。 朝仕事が始まる時、笛を吹いて合図したら、みんな一斉に仕事に行かないということにしました。 捕まったらそれはそれで仕方がないと思っていました。地元の警察に引っ張っていかれ、なぜ仕事をしないのかと 聞かれましたが、食物がなくお腹が減る、靴も着るものもないといいました。」 「1945年4月6日のことです。私達の宿舎を日本の憲兵隊が突然包囲しました。ストライキをやっていた 主要メンバーに手錠をかけ、壁にむかせ互いにしゃべることを禁じました。」 逮捕された人たちはその後大阪府内の数カ所の警察に別々に収監され、拷問による取り調べを受けることになります。 築港2次に連行された人たちは、各地から産業物資、生活物資を積み航行してきた船舶からの陸揚げの まさに入口にあたる船内荷役を担いました。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
●収容地跡の現在 | |
●最初の収容地の当時の住所 大阪市港区八幡屋町2丁目1 大阪市八幡屋北国民学校分教場 ●最初の収容地の現在の住所 大阪市港区港晴5丁目 安治川1号岸壁(大阪埠頭倉庫、通称バナナ埠頭) 西端の北方沖数十メートル 安治川の中 |
その他
港運伏木から転入
○大阪での収容地不明 | 日本港運業会伏木労工管理事務所 富山県の伏木湊町(当時)にある伏木労工管理事務所には865人が強制連行されています。 配置転換中、伏木の一人葛鳳徳さんが11月16日に大阪市立桃山病院で「赤痢」により 33歳で亡くなったとされています。 大阪での収容地は全く明らかにできていません。 またこれ以外にも、大阪港に上陸し鉄道で他道府県に連行された人たちがいました。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
港運大阪築港1次
○収容地不明 | 日本港運業会大阪築港華工管理事務所(44.11.25設立)の 第1次連行 44年4月に大阪築港の第1次として191人が連行(福昌華工介在)されています。 一番の問題は名簿が一切ないことです。 築港華工管理事務所の設立より7カ月も前の連行であり、連行の主体は別と考えられます。 一年の労働の後、戦争中の45年4月に帰国したとされています。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
大阪船舶荷役
●大阪船舶荷役の収容地 | 大阪船舶荷役株式会社 大阪船舶荷役への強制連行は、唯一の総括的な公的資料とされる「外務省報告書」に記載がありません。 「大阪船舶荷役株式会社分:43年8月29日大連出港時、福昌華工管理課長中西秀三郎・邦人社員2人・ 満人[原文のママ]社員3人(以上引率者)、華工頭2人・華工208人。9月3日午前7時和田岬で神戸税関の検疫の後、 午前10時大阪港に入港、午後3時港区二条通4丁目41番地の宿舎に到着。契約6カ月」 「神戸船舶荷役株式会社分:43年9月3日大連丸で大連出港時、福昌華工軸原・浅野引率、106人。 9月7日神戸入港(福昌華工株式会社) 」 そして両者、大阪と神戸合同での福昌華工株式会社との契約書が添付されています。 これと関連しそうな記載も残されています。 ・43年1月23日付、(海務院、現地に派遣、数次折衝の結果)華北運輸公司と大体諒解「四、五百名程度」、 主として船内作業、差当たり大阪、伏木の2港。 早い時期から大阪港湾への連行が念頭に置かれていたと思われます。 [→このページのtop収容地一覧へ] |
●収容地跡の現在 | |
●収容地の当時の住所 大阪市港区2条通4丁目41 ●収容地の現在の住所 大阪市港区築港4丁目11-18 |
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